Thing that can be done for you



 無味乾燥な部屋の中、ウィル子は眠るヒデオをじっと見つめていた。
 傍らのサイドテーブルにはウィル子のお家とお見舞いの果物、それと一億の入った鞄が置いてある。だが今の彼女には比較的どうでもいい物だった。
「……ますたー」
 呼んでは見るが彼は穏やかに眠っているだけ。
 ……いや、穏やかに……と感じ取っているのはウィル子だけ。他の者から見れば完全な無表情。
 リリーや貴瀬などは“このまま棺桶に入っていても違和感がない”とまで言ったのだ。
 そしてそう、ヒデオはそうなる寸前だったのだ。
 美奈子を連れ、ゴールまでたどり着いた彼の体からは大量の血液が失われていて……、もしもう半時間手当が遅れていたら、失血死していたのだ。
 ろくに、目も見えてなかっただろう、針に貫かれた手足はひどく痛んだだろう……。
 それでも彼はゴールまで帰ってきてくれた、約束を守ってくれた。
 ゴールで彼が崩れ落ちるその瞬間、彼が笑ったのをウィル子は見た。
 いや、実際にはヒデオは、どんな時でも感情を表に出さない彼は、笑ってなどいなかったのだろう。
 だからウィル子が見たのは彼の心そのもの。レース中、ヒデオがウィル子の仕事を垣間見たように、あの時ウィル子は彼の心を覗き込んだのだ。
 そして伝わってきた。彼の思いが。

 良かった。僕は間違っていなかった。
 この笑顔が見たかったんだ!

 普段の、勝負中以外の時の彼からは考えられないほどの饒舌、感情の吐露。
 だからこそウィル子ははじめ錯覚だと思った。
 しかし伝わってきたものはあまりにもリアル。それが真実であると信じさせるには十分すぎるほどの衝撃があった。
「マスター、起きて下さい。……怪我は、治ってるのですよ」
 ヒデオの怪我は全て完治させられている。失われた血液も補充したと言っていたから、たぶん大丈夫なのだろう。
 ただ彼は体力を失い過ぎた。これは怪我を治療しても簡単には戻らない。
 ましてヒデオは他の参加者とは違い、完全な一般人、完全なる引きこもりであった。
 その体力は普通に比べても劣っているだろう。
「それでも、ウィル子はマスターがご主人様で良かったと思うのですよ」
 今、主人を選びなおせと言われても、ウィル子は迷わずヒデオを選ぶ。
 彼がパートナーでなければ、自分達は優勝候補だなんて呼ばれていなかった、ここまで勝ち進んでこれなかった。
 彼がマスターでなければ、この大会には出られなかった、ここにこうして存在すらもしていなかったかもしれない。
 ウィル子が寂しげにつぶやく。
「本当ならウィル子は、お家に帰っていた方がいいのですよね……」
 自分はヒデオに寄生して、彼から力をもらって、ここに存在を描き出している。
 本当に彼を思うのなら、姿を消していた方が彼の負担は減るのだ。
「でもウィル子はここにいたいのですよ。その方がマスターの様子がよくわかりますから」
 パソコンに帰っても、ヒデオと繋がっているのだから、彼の様子はなんとなくわかる。
 でもなんとなくでは嫌だ、はっきりと知りたい。
「わがまま、ですか?」
 ここにいればヒデオの様子ははっきりと見ることができる。そしてもし、もし彼が事切れて、しまった時もはっきりとわかるだろう。
 そう、わかるはずだ。
 どんなに静かにひそやかに息をひきとったとしてもウィル子にはわかる。
「ええ、わがままですよ。ウィル子は、極悪ウィルスなんですから」
 ……その時、自分は現実世界から姿を消し、データだけの存在に戻るのだろうから。
 ウィル子は無造作にりんごを掴み取り、噛った。
 甘い。
 けれどおいしくない。
 食べ物を食べるようになってからは、ヒデオはごく自然にウィル子の分の食事も用意してくれた。
 それはこのりんごよりも、もっと味気ない、質素なものだったが、すごくおいしかった。
 それに比べれば、これは砂を噛むように、旨味がない。
 それでもウィル子はりんごを噛った。かみ砕き、飲み込み、消化して、りんご丸々一個をエネルギーに変換する。
 そしておもむろにヒデオの手に自分のものを重ねる。
 しかし何も起きはしない。
「やっぱ、ダメですかー」
 自分が彼から奪うように、彼のやる気が力を与えてくれるように、自分から与えられないかと思ったのだ。
「ウィル子はマスターから貰うだけですか」
 奇跡の対価……。
 彼はそう言ってはいたが、その奇跡の恩恵は自分もまた受けているのに。
「あ〜、そういえば……」
 こういう時は口移しで力を分け与えるのだというのをネット回遊中に何回も見た。
「……」
 両手をヒデオの肩に置き、顔を近づける。
 ぱさりと彼の顔に落ちかかった髪をそっと脇によせる。
 薄く開いた唇から漏れるかすかな吐息が顔にかかる。
 目を閉じ、唇をゆっくりと近づけて……
 かすかに触れたソレの暖かさに、思わず身を引いてしまう。
 大きく深呼吸。
 これはそんなんじゃないと自分に言い聞かせる。
 そしてもう一度顔を近づけ、今度は深く重ねようと決意を固め、目を閉じた、その時だった。
 不意に背後で物音が聞こえた気がした。
 目を開け、視線をあげると、窓ガラスに扉の隙間からこちらを除き見るリリーの姿が写っていた。
 振り返って彼女を睨む。
「あ、いや……私の事は気にしないで? 続けて続けて」
「続けません!」
 リリーがくすくすと楽しそうに笑いながら部屋に入ってきた。
「目、覚まさないね」
「はい……」
「でも大丈夫だよ、ドクターは直したって言ってたし」
「あの、今びみょ〜にニュアンスが違いませんでした?」
 リリーはそれをさらっと流すように言葉を続ける。
「気のせい気のせい! それに死んだとしても生き返らせてくれるよ、きっと!」
「ほ、本当ですか!?」
「うん! もれなく人体改造、性格改造付き!」
「か、改造って……。そんな事されて大丈夫なのですか!?」
 ウィル子が顔に縦線をいれまくっているが、リリーは平然と言う。
「案外大丈夫なものだよ? ……彼女も、昔は人を斬るしか興味のない子だったけど、今では笑顔で目ビームやロケットパンチを飛ばす元気で明るい子になったよ」
 元気で明るくて、笑顔でロケットパンチを飛ばすヒデオはちょっと見てみたい。
 ……いや、ダメだ。
 そんなモノを見たら最後、今の自我は崩壊してしまう。
「でもまあ、ヒデオ君は死んだりしないだろうけどね」
 なんたって優勝候補だし……、とリリーが笑顔で励ますがウィル子の気ははれない。
「なんだ。まだ寝てるのか」
「ひひっ。もう目を覚ましてもいいんだけどねぇ」
 貴瀬がドクターを連れてやってきた。
「社長」
「なんだ、ウィル子」
「もし、もしもですよ? もしも……マスターが亡くなったら……」
「……そんな事あるとは思わんが。まあいい、続きを言え」
「人を、貸して下さい。……エリーゼ工業に、殴り込みをかけます!」
 もしヒデオが死んでしまったら、自分はデータだけの存在になるのだろう。それでもエリーゼの所に殴り込む。
「ありとあらゆるデータを食い散らして、あらゆるプログラムを壊して、事故を誘発させて、……あいつらをみんな殺してやる!」
 自分の……ただ一人の人を殺したのだから、そんな程度では気が済まない!
「ウィル子ちゃ……」
 リリーを遮り貴瀬がウィル子に問う。
「君は、どうするのだ。君も無事ではすまんだろう」
 そう、無事ではすまないだろう。
 でも、それでもいいのだ。
 荒らして壊して殺しまわったあとは……。
「構いません。……ウィル子も、消えますから」
 たった一人、自分が信じるべき人を殺したのは、ウィル子自身でもあるから。
「悲壮な決意をしてるとこ悪いんだけどねえ。彼、目を覚ましそうだよ」
 ドクターに言われて、急いでヒデオの様子に目をこらす。
 ……確かに彼の意識は覚醒しかけている。
「よかったね、ウィル子ちゃん」
「あ……はい!」
 先ほどまでの決意をヒデオに知られぬように急いで笑顔を作る。
 あんなに見たいと願っていたのだ、とびきりの笑顔を見せてやろう。
 グランプリ優勝、賞金一億、多数の勝ち星……。
 幸い、笑顔のネタには困らない。
 自分的に満足できる笑顔を作り上げるとウィル子はヒデオに向き返った。
 くしくもその次の瞬間に目を開いた彼に、全開の笑顔で話し掛ける。
「まぁすたー! 覚えてますか!? 一位です!! ウィル子たちが聖魔グランプリ優勝したのですよー!!」
 この喜び、信頼を全て笑顔にこめて彼に贈る。
 自分が彼にあげられるのは、この笑顔だけなのだから……。




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Scribble <2007,07,22>