Awakening



 その日はやけに空の赤い日だった。
 雪降らす雲さえも赤く染めあげるほどの鮮やかな赤。
 この空が示すのような惨劇、自分に降りかかる悲劇をまだ知らず……少年は雪降る空を見上げ、溜め息をついた。
「兄ちゃん、遅いな……」
 そういう少年の手には傘が二本、大きいのと、小さいの。
「司、迎えに来てくれたのか」
 少年、司がその声に振り向くと、学生服に身を包んだ黒髪の青年が薔薇の花を持って笑いかけていた。
 そんな様も全く嫌みにならない、なかなかの美青年だ。
「おっそいよ、兄ちゃん! っていうかその薔薇は何?」
 青年、永斗は愛する弟の頭を撫で、笑って答えた。
「今日は母さんの命日だろ? で、好きだった花でも飾ってやろうかと思って、花屋をまわってたらこんな時間に、な」
「駅前に花屋あるんだけど。薔薇もおいてるし」
「う……。いや、なんと言うか……。ああ、そうだ、司、寒くないか? 兄ちゃんのマフラーを貸してやろう」
 永斗は弟の突っ込みをごまかすように、急いで自分のマフラーを彼に巻き付けた。
 司はまだ言いたいことはあったが、とりあえず黙る。
 兄の意図はともかくとして、巻かれたマフラーの暖かさはありがたかったから。
 追求を逃れた事に満足した永斗は弟の傘を受け取ると、それをさした。
 ごちゃごちゃ話している間に、大分時間が立ってしまったらしく、雪降る空はもう、すっかり夜の彩りだ。雲の切れ間ぬって届く月明かりだけが彼等の帰路を照らしてくれている。
 司は自分の傘は手にぶら下げたまま、兄の手をとった。
 迎えに来るのはめんどくさかったが、彼はそれが嫌いではなかった。
 自分に合わせてくれたゆっくりとした歩調、
 さりげなく自分の方に大きくささげられた傘、
 見上げると、笑い返してくれる兄の手の確かな暖かさ……。
 いつもは何を考えているかわからない永斗の優しさがはっきりと感じられる帰り道。
 司はそれがとても好きだった。


 ……商店街を抜け、もうすぐ家が見えるかというとき、彼等は異変に気付いた。
「兄ちゃん、なんか……、変な臭いしない?」
「ああ……。それに変だと思わないか、司。さっきから一人も人を見掛けない……」
 確かに彼等が通る道は人通りが多いとはいえない道だ。だが、商店街から一人も人が通らないというのは彼等にとっても異常だった。
「いったいなんだっていうんだ……」
 歩を進めるほど濃厚になる嫌な予感。
 その漠然とした不安を振り払うように笑い、彼は顔をくもらす弟に優しくいった。
「司、ここで待っていろ。兄ちゃん、ちょっとだけ先を見てくるからな」
 そう、言い残し、家への角を曲がったとき、先ほどの永斗の疑問は氷解した。
「あ、あ……ああ!」
 血の惨劇……。
 そう例えるしかない光景がそこにはあった……。
 全てを染めあげるかのように飛び散った鮮血……、地面に転がる、恐らく人であったのだろう肉塊……。
 今まで想像さえしなかった凄惨な光景が現実に広がっている!
 しかし……。永斗の目を奪ったものは……彼を絶望と恐怖の底に叩き落としたのは、そんなものではなかった。
 この場で永斗以外で唯一、動いているもの、渦高くつまれた屍肉を喰らう、明らかに人ではないナニか……。
 それが身に付けている衣服。
 それは、返り血に赤く染まり、引き裂けてはいたが、見間違えではない、あれは……!
「お、親父……?」
「ほう、サンプルの息子かね、君達は」
 その声に振り向いた永斗の視界を占領したのは一条の光!
 それは苦痛を与える暇もなく、永斗を切り裂き、死に至る傷を彼に残した。
「今の一撃で死なないとは案外丈夫だな、君は」
 そこに立っていたのは一人の男だった。
 自分達と何らかわらない普通の人間、少なくとも見た目はそう見えた。
 だが、全てはこの男が引き起こしたことなのだ。それは男の言葉と見下した冷笑が証明している。
「ひぅ……に、にいちゃ……」
 その男は手には恐怖に顔をひきつらせた子供を引きずっていた。彼が愛する弟、司を……!
「つか……! キサ……はな……せ!」
 気をぬけば奈落に落ち行く意識を奮い起たせ、永斗は叫んだ。
「離すとも。離さない理由があるかね?」
 そう言って男は司を解放した。
「!!」
 固いコンクリートの壁に叩きつけられた司は、声さえもたてられず痛みに身をふるわせた。
 幸か不幸か意識はある。いや、男はわざと意識を失わせない程度に力を加減したのだ。
 司に嗜虐のかぎりを見せ付けるために!
 永斗は男を睨みつけ、血と共に言葉を吐く。
「貴様……!」
「いい目だ。その目にめんじて教えてやろう、何故君達が死んでゆくのかを」
 男はあざ笑うような邪悪な笑みを浮かべ、言葉を続けた。兄弟を奈落の底に叩き落とす言葉を。
「たまたま目に入った、ただそれだけだ。運が、悪かったな? ……殺れ」
 その冷淡な声をうけ、屍肉をあさっていた異形が視線を向ける。
 傷付き、死にゆく彼の息子、即ち永斗に。
 父親であったモノが彼に襲いかかる!
 抵抗などできるはずがない。瞬時に彼は組み敷かれ、押さえ付けられた。
「ああああああああ!」
 息子の悲鳴を気にもとめず、ソレは爪を突きたて、牙で肉を裂き、永斗を喰らう!
 肉を食い千切られ、骨を砕かれ、吹き出す血が周りを、そして永斗自身を赤く濡らしてゆく。
 自分を喰らうモノが父親だということも、そばでいるだろう司のことも、永斗の頭から消え失せていた。ただこの激痛から逃れたい、早く楽になりたい……。
 安息の時がいっこくも早く訪れることをひたすら望んだ、そのことだけが彼の思考を占領した。
 やがて、永斗の意識が闇へと融けかけようとしたそのとき、激痛の中見たものは…………
 自分の血に濡れ光る紅い、薔薇……。
 

 血塗られた惨劇を兄が事切れるその瞬間まで、司はまばたき一つせず、見つめていた。いや、見ていたというのは正しくはない。その瞳はうつろで……既になにも写してはいない。
 目の前で父が兄を喰らうという猟奇的な光景のせいで司の心は虚無に支配されてしまっている。
「いつまで食っている気だ、こっちも始末しろ」
 そう言って司を指す。
 彼らの父であったモノはその言葉に永斗を放リ出し、一跳びで司の前までやってきた。
 血に濡れた長い爪を食い込ませるように、がしりと司を捕まえる。
「ひっ! あ、ああ……ひぅ……」
 食い込んだ爪のもたらす痛みが司を正気に引き戻す。
 正気に戻った彼の見たものは−恐らくは兄の−血で濡れた牙……。そこから滴る血が巻かれたマフラーを汚す。
 マフラーを巻いてくれた兄の姿は目の前に立つモノに隠れて見えない。
 いや、たとえ見えたとしても、全身を無惨に切り裂かれた姿の永斗では彼の救いにはならなかっただろう。
 兄を引き裂いた牙は彼の眼前で止められている。
 司が自分の子だと気付いたからではない。司の恐怖する様を見て、楽しんでいるのだ。
 永遠にも等しい、悪夢の時間……
 それを打ち破るかのように一発の銃声が響き渡った。
 その弾丸は狙い違わず、今まさに司に喰らいつこうとしていたモノの頭を撃ち抜いている。
「ほう……」
 男が感嘆の息を漏らす。その視線の先には紅く濡れた、歪な拳銃を持つ青年がいる。
 引き裂かれた服から覗く、傷一つない肌を月明かりのもとに惜し気もなくさらした永斗が……生きて、そこに立っている。
「貴様……殺してやる」
 研ぎ澄まされた刃のような視線を向け言う。
 その瞳は明らかに今までの永斗とは違う、憎しみを……そして殺意を知る目だ。
「そういうことはこいつを、君達の父親を倒してからいうことだな」
「父、おや……?」
 永斗の目に戸惑いの色がゆれ浮かぶ。
 その父はいまや永斗を敵と見なし、臨戦体勢をとっている。
 ソレを見つめる永斗の口から小さく、声が漏れた。
「……違う」
 次は自分の意思を固めるようにはっきりと叫ぶ。
「違う。これはてき、だ…………敵だ、敵だ!」
 全ての思いを振り払い、拳銃を撃つ。
 が、その弾丸はかすりもしない。わざとはずした、というわけではない。純粋に当たらなかったのだ。
 今まで日常を生きてきた永斗と、戦かうために作り替えられ、異形と化した父親とは差がありすぎるのだ。
 風切り音がなるたびに戦場に新しく、血が散ってゆく……。
 ……ぐらりと永斗の体が揺れ、その場に膝をつく。
 その隙をのがさず、敵は彼に喰らいついた!
 しかし彼は襲い来る激痛の中、悲鳴一つあげず、邪悪な笑みを浮かべ、言った。
「これなら、はずさない」
 永斗の手にある拳銃が不快な異音をたて、血塗られた紅い薔薇に変わる。しかし変化はそれに止まらない、薔薇は更に違うものに変異してゆく。
 それは……異音が鳴り止んだのと同時だった。
 鼓膜の破れるような大きな爆発音が鳴り響き、喰らいつく敵の腹に風穴が空いた。
「…………死ね」
 まだ事切れぬ敵に、永斗は冷たく言い放ち、薔薇から作り変えたばかりのロケットランチャーを再び打ち込んだ。
 人であった痕跡さえ残せず、彼の父親は完全に息、絶えた…………。


 パチパチと気のない拍手が耳に届く。拍手を送る男は冷たい笑みを浮かべたまま言った。
「たいしたものだ。サンプルとはいえ、覚醒したての君が勝つとは思っても見なかった」
「……次は、貴様だ」
「無理はしない方が、いい。その傷では意識を保つのも辛いはずだ」
「……」
 その言葉に永斗は答えなかった。
 男のいうことが事実だったからだ。もはや、体は動かず、できるのは呪殺せんばかりに睨むことのみ。
「いい、目だ……実にいい目をする。そうだな、その目と君の健闘を称えて、私の名を教えよう」
 男が邪悪な笑みを浮かべ、続ける。
「私の名はロード・オブ・アビス。私が憎いのなら、殺したいのならば……追って来たまえ、この私を」
「ああ。ああ! 追ってやる、必ず……必ず貴様を殺してやる、ロード・オブ・アビス!」
「その日を、楽しみにしているよ?」
 そう、言い残し男、いやロード・オブ・アビスは悠然とその場を去っていった。
 その背が見えなくなってから、やっと永斗は弟の存在を思い出した。
「つかさ……」
 かすれる声で弟を呼ぶ。反応はない。ただ脅えるような目で兄を見ている。
「司……?」
 もう一度呼ぶ。今度は微笑んで。
 それで、兄をやっと認識したらしく、今度は弾かれたように兄のもとに駆けてきた。
「兄ちゃん……にいちゃぁん!」
 今までの緊張が切れてしまったのだろう、司は堰を切ったように泣き出した。
 永斗は自分に抱きつき、泣く司を慰めるように頭を撫でながら言う。
「大丈夫だ、司。兄ちゃんが守ってやる、兄ちゃんがそばにいてやる……だから、泣かなくていいんだ、司……。兄ちゃんが、お前を……」
 そう、言いながら永斗の意識は薄れていった…………。



「!!」
 永斗が目を覚ますと、そこは見覚えのない部屋だった。
 その部屋はどこか病室をおもいださせるが、医療器具の類は一切ない。
「ここは……?」
「ここはUGNです」
 独り言に返事が帰ってきた。声の方を見ると柔和な笑顔を浮かべた男がいる。
「UGN?」
 永斗の問いに男は優しく首を振った。
「君からの質問は後です。先にこちらの質問に答えてもらえますか?」
 永斗が首を縦に振るのを見て、男は言葉を続けた。
「あの惨状を作り上げた犯人について何かわかりませんか?」
「化け物の死体があっただろう、あいつが、俺達の親父だった奴がやったんだ」
「そう、ですか……」
 男はかける言葉も見付けられず、黙った。彼は犯人を始末したのが永斗だということは知っていたが、それが彼の父親だとは、……実の父を手にかけたのだという事までは知らなかったのだ。
 そんな男の心中は知らず、永斗は言葉を続ける。
「だが、黒幕は別にいる。そいつはこう、名乗った。ロード・オブ・アビスと」
「な……。まさか奴が」
「知っているのか!?」
「えぇ、多少は……。それで奴はどんな人物でしたか? 容姿や性格、何でもいい、教えてください」
「……わからない」
「え?」
「覚えてない」
 男は重ねて、質問しようとした……が、やめた。永斗の強い意思の宿った目を見て、諦めたのだ。
 何を聞いても、永斗は答えはしないだろう。
「わかりました。今はゆっくりお休みなさい、話はそれからです」
 ため息をついて言い、男はその部屋を出ていく。人気がなくなって、しんとした部屋で永斗はぽつりと呟いた。
「奴は、渡さない」
 暗く、重い声で……。
「俺が、この手で……殺してやる!」
 はっきりと声に出し、自分に誓う。
 必ず、父の敵をとることを……。
「にいちゃん……」
 幼い声で呼ばれ、ふと傍らを見れば、自分にぴったりと寄り添い眠る弟の姿。
「司……」
 その寝顔を見て、永斗は安心したように顔をほころばせ、その頭を優しく撫でた。
 深く眠る司の寝顔も、それを見守る永斗の微笑みも、あの惨劇の前とかわっていない。
 今、このときだけを切り取れば……一見、なにもかわってないかのようにも思えた。
 だが、彼の……いや、彼ら兄弟の日常は確かに今日、終りを告げたのだ。




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