Entrust
夜。
浄ノ進が庭から空を見上げると細い弓月が淡い光を放っていた。
髪の色も抜け落ち、顔には年輪が刻まれ始めるような長い年月が過ぎたというのに、弓月を見ると彼女のことを思い出す。
異界の未来から訪れた女子高生、天野真弓。
彼女に出会い、共に戦えたからこそ今の自分があると言っても過言ではないと思う。
昔は、妖魔に殺されても病に倒れ死ぬことになっても運命であると諦め、生きることへの執着が薄かった。だが彼女と共に戦ったことでその意識は変わったのだ。
生きたいと。この乱世の行く末を見届けたいと願うようになった。
自らの意識の改革、そして同じ時間を生きる二人の仲間たちのおかげでその願いは叶った。……あとは幕を下ろすだけだ。
「よう」
「イクフサ、か」
大きな黒狼の呼び掛けに応える。ただそれだけなのに彼の口から大量の血がこぼれ落ちた。
「……体が悪いんなら部屋に戻ったらどうだ」
「いや、いい。自分の体のことは私自身が一番知っている。……私は、お主を待っていたんだ」
「何の用だ?」
「……山住家には死した者を山の神に捧げるという風習がある。遺体を山に安置し、そのまま自然に任すのだ」
「獣に喰われるんじゃねえか」
「ああ。それが問題なのだ。若き日には研鑽を重ね、それ以降蓄えるだけだった私の霊力はこの体に満ちあふれている。……それこそ肉をかじった獣を妖魔に転じさせてしまうほどに」
「なぜ今から死んだ後の心配をする」
「……私は、数日内に死ぬ」
「……おい!」
「言っただろう? 自分の体のことは私自身が一番知っていると」
先ほどの浄ノ進の言葉は大丈夫だから無理をしていいという意味ではなかった。もう黄泉の国に旅立つ身だから気遣う必要がないという意味で言ったのだ。
「そんな体でワシを待っていた理由はなんだ? お前の家の事情を聞かせるためか?」
「いや、今の話は前置きだ。今言った通り、私の体を獣にくれてやるわけにはいかぬ。だから……」
イクフサの目を真摯に見つめて続ける。
「イクフサ、お主が私を取り込んでくれないか」
イクフサが眉をひそめる。
「勇太を取り込んだ時の事を指して言っているのか。あれはあの童子が備えていた力だからワシはできん。だから取り込むとなると……」
「ああ。私を喰ろうてくれ」
脂も肉も落ちて不味いだろうがと付け加えた彼の顔は落ち着いた微笑のままで……。
浄ノ進の覚悟をイクフサに知らしめる。
「……ワシが、力を持つのはいいのか」
「昔ならいざ知らず、今のお主は力の扱いを間違ったりせぬよ」
しばし、沈黙が流れる。
浄ノ進はイクフサの返事を待ち、イクフサは浄ノ進の気持ちが変わらないかとうかがう。
その沈黙の空間を破ったのはイクフサの大きなため息だった。
「わかった。喰ってやるよ。どんなに不味かろうと血の一滴も残さず喰ってやる。だが……お前も来い」
「うん?」
「ワシん中に隙間を作ってやる。肉は取り込めなくても魂だけなら同居させてやれる」
「勇太殿のように?」
「ああ。あの時のように」
魂を預かろうと言ったイクフサの真意がどこにあるのかはわからない。だが決して悪意ではないと思う。
退魔師としてのカン……いや、彼の仲間として生きた数ヶ月の思い出が浄ノ進にそう告げている。
「わかった。お主に私を預ける」
「乗れ」
「いや、それにはおよばぬよ。いくら痩せているとはいえ人一人運ぶのは難儀だろう?」
浄ノ進はそういうと一度庭から部屋へ戻った。そしてつづらから人形を、机から和紙を用意して、その二つに血を振りかける。
すると人形はいつぞや見た白狼に変わり、和紙に振りかけられた血は独りでに文字を綴って文章を作り上げた。
『迎えが来たから共にゆく』
書面に名はないが、山住家には込められた霊力がわかる者がいる。ならこれが確実に浄ノ進の置き手紙であるとわかるはずだ。
「遺すのはそれだけでいいのか」
「ああ。……昔、神隠しにあった童子が再び神に召しあげられた。ただそれだけだ」
「神ねえ……」
「どこぞの国では神狼などと呼ばれておるのだろう?」
「好きで呼ばれてるんじゃねえ」
そっぽを向いたイクフサに微笑を向け、浄ノ進は白狼にまたがった。
「さあ……ゆくか」
人気のない湖畔の側で青年はすっくと立ち上がった。口元を腕でぬぐうと、ベッタリと血がついた。それを水で洗い流そうとし……首をふる。
「血の一滴も残さねえって言ったしな」
腕についた血を丁寧に舐めとって嚥下する。神をも魅了する美酒であるはずのそれは、ひどく口に苦かった。
「喰ってやったぞ、山住。肉の一片、血の一滴……骨の一欠にいたるまでな」
返事はない。
取り込んだ山住の魂は自分に融合するでもなく、かといって自身を主張するでもなく、静かに収まっていた。意識を凝らして彼を観察すると、山住の魂は穏やかに眠っているように見えた。
「……ふん」
輪廻の輪にこの男を取られるのはつまらないからと、彼を取り込んでみたもののこれではあまり意味がない。
まあ、山住の魂は自分が握っているのだ。いつの日か……自分が転生する事でもあれば、彼を自分の側に転生させよう。それならば来世でもなかなか楽しい人生がおくれそうだ。
バリバリと頭を掻いて湖の縁による。湖面に写し出された自分の姿は以前に化けたものとは微妙に違う。
バサバサに広がっていた髪はクセがなくなり真っ直ぐに伸びている。顔立ちからは険がとれ、体つきはやや細く小さくなっている。
「山住の影響を受けたか」
体もだが、一番影響を受けているのは内面だ。
以前は稀薄だったはずの意志がイクフサの心に強く訴えかけてきている。
その意志とは"人を護ろうとする意志"。
人を、命を護りたいと、それが力ある者の使命であるとイクフサに訴えている。
「まあ、勇太の時とは違うしな」
童子であった勇太ですら、イクフサに大きな影響を与えたのだ。それならば年輪を積み重ねた山住の与える影響は倍以上であろう。
「山住、お前はわかってワシに取り込まれたのか……?」
この意志があるならば、確かに力の使い方を誤らないだろう。
「……いや」
彼の魂を取り込むと言い出したのは自分なのだからそれはない。彼はただ、イクフサを信じてくれていたのだろう。……今となっては彼に確かめるすべはないが。
「まあ、どちらでもいいか」
この意志に従ってみるのも悪くない。今までだって妖怪相手に暴れてきたのだ。それが"人に仇なす"妖怪相手に変わるだけだ。
……それに、感謝されるというのは、なかなか気分のよいものだし。
放り捨ててあった着物を羽織る。寸法は全く足りていないが今はこれでよいだろう。人里におりてから調達すればよい。
「さあ……いくか」
そう言って、神狼と呼ばれた男は仲間と共に山をおりていった。
終
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Scribble <2009,07,25>