Beloved Family
05
レントは悩んでいた。ノエルのことで深く深く悩んでいた。
別にノエル本猫に問題があるわけではない。彼女は病気もせずにすくすく育ち、自分との生活にもすぐに馴染んでくれた。家具や壁で爪研ぎするでもなく、部屋を散らかしたりもあまりしない、本当にいい子だ。
甘えたがりで自分から離れたがらないのが少々アレだが、お留守番はちゃんとしてくれるので、困るということはない。
なら何に悩んでいるのかというと……。
「私もこんなことを言うのは心苦しいですが、ノエルちゃんを里子に出すか、それかレントさんが引っ越すかしていただけないでしょうか……」
などということを大家さんに言われたのである。
レントの住むこのアパートはペットへの規制が緩かった。室内で飼う限り、ペット可の物件だった(だからこそ迷わずノエルを家族にしたのだ)のだが……。
……隣に住む一家の子供が猫アレルギーを発症してしまったのである。
その子はたいへんな動物好きだった。レント自身その子が小動物を何匹か飼っているのを知ってるし、ノエルを連れ帰った日にはその一家のもとに挨拶にも行った。その時は大丈夫だったのだ。その子は喜んでノエルを撫でていたし、家の前で顔をあわすたびに、ノエルにあわせてあげていた。
その幾度かの接触が引き金になってしまったのだろうか、突然その子が猫アレルギーを発症した。詳しくは聞いていないが、喘息に似たひどい発作をおこすらしい。幸いというかなんなのか、発症したのは猫アレルギーだけ。その他の動物は大丈夫らしい。
レントからすれば何故ピンポイントに猫だけと思わないではないのだが、彼女のことを思えばよかったのだろう。
……で大家さんとの会話にいたる。なにせその子は猫さえ、ノエルさえいなければ大丈夫なのだ。だからこそ大家さんはノエルを里子にだすか、共に引っ越すかしてほしいと頼みに来ている。まあ、隣の一家が引っ越すという選択肢もあったのだろうが、独り身で身軽なレントが引っ越すという方が負担が少ないだろう。……ちなみにその場合は引越し代金を出してくれるそうだ。
とりあえず大家さんには考えておきますと答えておいたが、はやく決めなければならない。
ノエルを里子に出す。……トランは喜んでノエルを引き取ってくれるだろうが、自分がたえられそうにない。ノエルはかけがえのない愛する家族なのだ。
かといって引っ越すあてがない。会社のそばでペット可の物件なんて、そうそう見つかるわけでもない。
ゴトン
「みー!」
何かが落ちる音とノエルの声に振り返ってみれば、ノエルが携帯に向かって威嚇していた。
レントの記憶では携帯は机の上にあったはずだから、たぶんノエルがストラップにじゃれるかなにかをして落としてしまったのだろう。
「みー! みあー!」
……しつこく威嚇し続けているところを見ると、落ちてきた携帯でどこか打ったのかもしれない。
たったかたったったー♪
「にゃ!? みあ〜!」
タイミングよく響いたメール着信音に驚くノエルを膝に乗せて、メールを確認する。そこにはこう書いていた。
【鍋をするので夕飯を食べに来ませんか?】
「はあ、猫アレルギーですか。難儀なことですねえ……」
レントの話を聞いたトランが白菜を咀嚼しながらこたえた。
「はひ。かなり……ひどいらひくて…………窓とかから飛んでくる毛にも反応してしまうそうです」
……などと、魚を食べながらこたえるレント。
二人とも口は空にしてから話すという基本的な礼儀を忘れている。まあ、鍋だから話ばかりしていては鍋の具材が煮えすぎてしまうというのもあるだろうが。
……ちなみにクリスとノエル、そしてちゃっかりいるエイプリルは煮えた白菜やら魚をもらって、その熱さに四苦八苦している。
「んー……窓から飛んでくる毛が駄目ならノエルがいなくなっても意味ないんじゃ?」
「むぐむぐむぐむぐ……」
「いや、それはさすがに口に頬張りすぎ。何言ってるか全然わからないから。……っていうか口の幅いっぱいにうどんすすらない!」
せっかくの美人顔が台なしである。
それはともかくレントは急いで口の中を空にすると、兄の質問にこたえた。
「少なくとも定期的な毛の飛散はなくなります」
「まあ、確かに……。で、どうするんです? 里子に出すというならわたしが引き取りますが」
「みう……」
お腹がいっぱいになったノエルがレントの膝の上でまるくなっている。レントは箸を置き、彼女をそろりと撫でた。そんな弟の瞳からは深い愛情が見て取れる。
「あなたが離れられないですよね?」
「はい……」
「なら……」
トランはレントの器にこんもりと具材を乗せてやりながら、こう続けた。
「ここに帰ってきなさい」
「…………は?」
レントの目が丸くなったのはトランの言葉のせいなのか、それとも乗せられた山盛り具材のせいなのか……。
「だってそうでしょう? 他のアパートを探す必要なんてありませんって。……そりゃあ、会社から歩いて十分のあなたの今のアパートよりは遠くなりますが、ここだって自転車で二十分もあればつけますよ」
歩いて十分と自転車で二十分はかなりの違いがあると思う……。
ちなみに車でないのは免許を持ってないのでも、ガソリン代がもったいないのでもなく(多少は節約精神が働いているが)、道幅の関係上で車だと遠回りをせねばならず、余計に時間がかかるためである。
「でも兄さん……」
「わたしだってあなたの家族。ここもあなたの家でしょう?」
優しい兄の言葉に目頭が熱くなる。この人に甘えて頼ってばかりの自分を見直すために家を出たのに、この言葉にすがってしまいたいと思う。……やはりまだ自分は未熟なのだろうか。
「レント……、帰っておいで」
こぼれそうになる涙をごまかすために下を向き、震えそうになる声をごまかすために口いっぱいに食材を詰め込む。
しかしレントは大きく首を縦に振り、はっきりとした肯定の意志を示したのだった。
以前とかわらない暗い我が家。
「ただいま」
「わん」
「にゃ〜ん!」
しかし今は迎えてくれる家族がある。
「少し待っててくださいね。ご飯の用意をしますから」
「……ただいま、兄さん」
……そして迎える家族がいる。
静寂の中に聞く音だって以前とまるで違う。
静かな空間に流れるのは、クリスの期待に満ちた尾の振る音、ノエルの安心しきった咽をならす音。……心に安らぎを与えてくれる幸せな音色だ。
ふと視線をずらせば、クリスやノエルが目を輝かせて顔をあげ、レントが何のようだと首を傾げる。
……そのことが幸せでたまらない。
独りではない、家族がいる幸せ。
今、彼等の家は幸福で満ち足りていた。
終
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Scribble <2008,02,24>