You who not is any longer



 トランの膝に座らされ、ノエルとクリス、それぞれから食事を与えられ……まあ、和やかに夕食は終わった。
 風呂にも行き、体を清められたあとは、ベットの上にコロリと転がされた。
「トラン、私は風呂に行ってくる」
「はいはい。いってらっしゃい」
 風呂に行くクリスを見送って、トランは大きく伸びをした。
「なんだか疲れましたね」
「(わたしのせい、か?)」
 もしそうだとしたら悪いことをした。謝りたいが言葉は通じないし。
「ん? なんですか?」
「(いや、その。すまない……)」
 言葉が通じないなりに謝ってみる。
「寂しい?」
 ああ、やっぱり通じていない。
 ……いや、謝るよりも伝えなければならないことがある。……クリスのいない今がチャンスなのだ。
 捕まえられ、高い高いされるが、それを拒否するように大きく体を動かしながら口を開く。
「(イジンデルでは一人になっては駄目だ!)」
 せめてあの時、トランが一人きりでなければ最悪の事態は防げたのかもしれない。大怪我はしても命を落とすことはなかったのかもしれない。
 だから一人きりになってはいけないと、彼に警告したかった。
 それなのに、自分の言葉は口から出たとたん、意味の不明瞭なものになってしまう。彼は何も理解してくれない。
「(仲間から離れては駄目だ。一人になっては駄目だ!)」
「めーめーって羊ですか」
 トランがクスクス笑いながら起き上がる。その膝の上に立ち上がり、顔を近づける。
 ふわふわと優しく包みこむような穏やかな笑顔にまた胸が痛くなった。
 レントはこの笑顔が永久に失われてしまうことを知っている。この優しい前任の灯火が数日の内に消し去られてしまうことを知っている。
 だからこそトランの笑顔が痛い。燃え尽きてしまう灯火の暖かさを求めてしまう、失いがたい……亡くしたくない!
 確定された未来を覆すような行いが、はたして正しいのかはわからない。
 少なくとも自分の存在はなくなるだろう。けれどそれでもかまわない。
 ノエルの心の安定が守られるならば、その後の過程もずっと心穏やかに過ごせただろう。悲しい真実だって、トランならばうまく慰めただろう。ゾハールとの戦いも、一撃もいれられなかった自分よりも、この男の方が役に立てるはずだ。
 ……いや、違う。
 こんなのはただのいいわけだ。
 ただ自分が、トランを亡くしたくないだけだ。
 見ず知らずの自分を拾い、親探しに心をくだき、寂しさに涙せぬように精一杯の愛情を注ぎ込む。
 出会ってまだ半日ほどしかたってはいないのに、トランから与えられた愛情はレントの心に溢れている。
 ……この優しい男の命を救いたい。彼をノエルたちの元に残してやりたい。そのためならば自分の存在なぞ消えてもかまわない。
 先ほど決めた決意を再び固め、必死に話しかける。
「(イジンデルでは、決して一人には、なるな!)」
 ああ、それだというのに。彼は優しげな微笑で首をかしげて……。
「わかりませんよ、スノウ」
 伝えたいのに、わかってほしいのに、彼は理解してくれない。
 優しく撫でてくれる手を守りたいのに、救いたいのに!
「(わ、わたしはあなたを救うことはできないのか……)」
「スノウ?」
 瞳からポロポロと雫がたれた。
 初めて流したこれが、涙というものだと理解する余裕もなく、トランの服にしがみついて涙を流し続ける。
「ス、スノウ?」
 トランが頭を撫で、優しく背中をたたいて慰めてくれるがレントは泣き止めない。
「スノウ、お願いだから泣かないでくださいよ。泣かれるとわたしまでつらい気持ちになる」
 そんなことを言われたところで泣き止めるはずもなく……。
「ひっく……ひっく……ひう」
 予定された悲劇を思うと辛くなる、失われる男の笑顔を見ると苦しくなる、何もできない自分の無力さに悲しくなる。
 負の感情が入り交じってレントを内側から苛んでくる。
「スノウ、スノウ? 大丈夫ですよ。お父さんもお母さんもいないけど、わたしたちがいます。あなたは一人じゃない」
 一人なのは自分ではない。皆を残して一人で逝くのはトランなのだ。
「えーあー……そうだ! お隣に遊びに行きましょう! お姉さんたちが遊んでくれますよ」
 涙を流し続ける自分を抱き上げてトランが部屋を移動する。
 紅茶の香りが鼻をくすぐると同時にノエルの慌てた声が聞こえた。
 いくつかのやり取りがノエルとトランの間でなされ、レントは彼女へと受け渡された。
「(トランを助けてください。トランを救ってください! ……彼を一人にしては駄目なんです!)」
 トランを指差して、ノエルたちに必死に訴えかける。トラン本人が気づかなくとも、仲間の誰かが気づいてくれれば、そして彼を一人にすることがなければ、あの悲劇は防ぐことができる。
「(トランを死なせないで!)」
「父ちゃん?」
「いや、きっとたぶん違うから。というかいきなり変なこと言わないで!?」
 どうしてわかってくれない! やはり歴史は変えられないのか。
「なんというか、さっきからこの調子でして……」
「何を言ってるんでしょうねえ」
「お前に赤ん坊の翻訳機能はないのか」
「ついてません。というかそんな物は存在もしませんって。あったら全国数千人のお母様方が大喜びですよ」
 ……ああ、本当に。
 今そんなものがあれば容易に警告を伝えることができるのに。
「(トラン……)」
 見上げたトランは困ったような微笑でそっと頭を撫でてくれた。
「ノエル、しばらくスノウをお願いします。わたしは……支部で情報をしいれてきます」
 部屋を出ていったトランと入れ替わりにクリスがやって来た。ポカポカとあたたかい腕に抱き上げられ、声をかけられる。
「どうした、スノウ? 泣いてたのか?」
 ニコニコと笑いかけてくるクリスの胸元に聖印が飾られているのが見えた。
 この聖印が悲劇の源!
 この聖印さえなければ、騎士団がイジンデルを襲うことはない。
 歴史の大幅な改変は避けたかったが、この際しかたがない。なんとかして聖印を捨てなければ……。
「ん? これが欲しいのか?」
 椅子に座ったクリスが微笑みながら聖印を首から外し、レントに手渡してくれた。
「これは大切な物だから、おもちゃにはするなよ」
 それならはじめから赤子になど渡すな。いやしかし、これは好都合だ。あとはなんとかしてこれを捨て……。
「(……無理だ)」
 今のレントは一人で歩くのが困難な赤子。すぐそこにある窓まで行くのも、クリスに抱き上げられた今の状況では無理なことだ。
 もしうまく捨てることができたとしても、クリスは必ず探しだしてくるだろう。
 ……彼はこの先に待つ悲劇を知らないのだから、その悲劇が自分によってもたらされるとは今は知らないのだから。
「もういいか? 返してもらうぞ」
 クリスがレントの手から聖印をそっと取り上げた。
「(クリス……。それを所持してはいけない)」
 鎖を引っ張り意思表示してみるが、彼は違う意味にとったようだ。ニコニコと笑顔でレントに話しかける。
「スノウも聖印が欲しいのか。なら、明日神殿でお前の分ももらってきてやるからな」
 違う、誤解だ、そんな物いらない。
 レントの表情の変化もわからず、クリスは彼を膝の上にのせて楽しげに頭を撫でた。
「いい子だな、スノウは」
 それは神殿の使徒的な意味でか? 聖印に、神殿に興味を抱いているからいい子だと?
 だとすれば、そんなことは間違っているし、そもそも誤解だ。
 ああ……。体が大人なら、口がきけたなら、何百の言葉でもって反論するのに……。
 コンコン。
 控えめなノックが部屋に響いた。どうやらトランが帰ってきたようだ。
「お帰り、トラン。何かわかったか」
「いいえ。何も……」
「……そうか」
 落胆しているところ悪いが自分に親は元からいない。いないものを探したところで見つかるわけがない。だから彼らのしていることは全くの無駄なのだが……。
「じゃあ、明日はみんなでスノウちゃんのお母さんを探しましょうか」
「……俺も昔のツテを訪ねてこよう」
「私はもう一度神殿に。ノエルも一緒にどうですか」
「はい。ご一緒します。トランさんは?」
「わたしは……宿でスノウと共にお留守番しています。張り紙や伝言が功を奏して親がここを訪ねてくるかもしれない」
 トランたちは何としても親を見つける気のようだ。自分にそれを止めるすべはないし、理由もない。なぜならば、彼らが親探しをしている限り、彼らはこの町を離れない。……イジンデルでの悲劇は先伸ばしにされる。その間に何とかして彼らに伝えるのだ。
「スノウ、こっちにいらっしゃい?」
「(トラン、わたしはあなたを死なせない。必ずわたしはトランの死を回避してみせる)」
「はいはい。もうねんねしましょうね。帰りましょうか、クリス」
 抱き上げられたトランの胸に体を預ける。彼はふわふわと微笑みながら頭を撫でてくれた。
 そんな自分たちにクリスがトランと同種の微笑を浮かべながら話しかけてきた。
「そうだな。というかスノウを私から取り上げる必要はあったか?」
「ありませんよ。ただわたしがスノウを抱っこしたかっただけ」
「……そうか」
 ……こんな落ち着いた優しい表情のクリスを自分は数えるほどしか見たことがない。なのにトランにはごくごく普通に見せるのか。
「スノウちゃん、また明日ね」
「スノウ、バイバイは?」
「(……おやすみなさい)」
 トランに促され小さく手をふる。おやすみなさい……と言ったはずなのに、発音は『バイバイ』みたいになった。
 ……なんとなく、恥ずかしい。抱き上げてくるているトランの胸に顔を埋めて目を閉じる。
 すると瞬く間に睡魔がおそってきた。……本当にこの体は眠ってばかりだ。
 ……でも、まあ。それに無理して抵抗することもないだろう。彼らに伝えるべきことはあるが、まだ時間がある。自分がいる限り、トランたちはイジンデルに旅立たないだろうから、その間に何としてでも伝えるのだ。
 ……そうだ紙に書いて伝えるというのはどうだろう。もちろんこの赤子の手はうまく動いてくれないのだが、一文字一文字大きく書けばなんとかなるかもしれない。
 ……うん。それがいい。
「おやすみ……トラン、スノウ」
「おやすみなさい」
「(おやすみ、二人とも)」
 両隣から伝わるぬくもりと優しい声にこたえて、レントは意識を手放した。




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Scribble <2009,10,24>