Decision
「おかえりなさい、ノーヴェ!」
天の箱舟から降りた親友に真っ先に声をかける。これは親友である自分の特権。誰よりも早く彼女の元に駆けつけ彼女を出迎える。それが今の自分の楽しみだ。
「どうしたの、ノーヴェ? なんだか、元気ないよ……」
この親友にしては珍しいことだった。彼女はいつも元気で明るくて。落ち込むことがほとんどなかったのにこの有様はどうだろう。今にも崩れてしまいそうだ。
「うん。ごめん、ニオ……。ラフェット様にオムイ様のところまできてくださるように、頼めるかな? どうしてもお伝えしなきゃならないことがあるんだ」
「わかったけど……休まなくて大丈夫なの?」
「うん。体は……」
体は? じゃあ、心が疲れてる?
どっちにしろ彼女はオムイ様たちに伝えてから出ないと休まないだろう。ならば自分が彼女に出来るのは一つだけ……。
「先にオムイ様のところに行ってて。先生を呼んでくるから!」
「つまりイザヤールは裏切ってなどいなかったと」
「はい。天使界と天使たちを救うため、あえて敵の中に潜入してくださっていたのです。そして……」
淡々と報告していただけのノーヴェの表情が悲しみにゆがむ。
「皇帝ガナサダイとの戦闘の際、私をかばい……天へと還られました」
隣でラフェット様が息を飲んだのがわかった。自分だって一瞬、心臓が止まるほど驚愕した。嘘だと笑い飛ばしてしまいたかったが、そんな事はできない。親友である彼女はそんな嘘をつかないことを誰よりも自分が知ってる。
そして、あの苦痛にゆがむような顔を前にそんなことを言い出せるものは一人もいない。
「事態はそれだけに収まりません。先ほど天を貫いた光をご存知でしょうか」
「うむ。かつてないほどに邪悪で……なぜか悲しげな光であったな」
「あれは天使……いえ、堕天使エルギオスが放ったもの。彼は神を憎み、天を憎み、人を、地上を憎み――全てを滅ぼすと」
「なんと……!」
オムイ様の上げられた驚愕のお声に呼応するように、集まっていた天使たちにも動揺が現れ始めた。……でももしもオムイ様が驚きになられてなくても、自分達は動揺を抑えることはできなかったと思う。
天使が人間を憎むなんて、ましてや神を憎むなんてあるはずない。自分たちはそう思っていたのだから。それと動揺した理由はもう一つある。
「……どうしたらよいじゃろうな。わしらではもはやエルギオスの力を抑えることはできまい。しかし抑える力を持つノーヴェは天使の理に縛られ、剣を向けることさえ出来ん。このまま、世界を滅びるのを待つしかないのか……」
「いいえ……。一つだけ方法があります」
そう言ってノーヴェが懐から取り出したのは黄金色の果実。そう、女神の果実だ。
「これは先ほど女神セレシア様から預かった物。私への感謝の気持ちで実ったこの果実を食べれば、私は天使の理から外れ、エルギオスに剣を向けられる存在となれます」
「待って、ノーヴェ!」
静止の言葉が口から飛び出した。集まる天使たちの視線は気になったが、どうしても訊きたいことがある。
「天使の理から外れるって……天使じゃなくなるってこと?」
ノーヴェの口元がフルフルと振るえた。目はみるみるうちに潤み、たれ気味の目じりに涙がいっぱいにたまった。彼女はそれをぐっとこらえるかのように目を開き、コクリと一つうなずいた。
「そんな……」
ノーヴェが果実を食べれば、彼女は天使としての自分を失い、自分はノーヴェという親友を失う。
片方の天秤にかけられているのが世界だとしても、その重みの差は限りなくゼロに近い。でも他の大多数の天使たちにとってはそうではないのだろう。そう、視線が言っている。無言で彼女に圧力をかけている。
天使としての役割を果たせ、世界を救え……と。
「ノーヴェや」
「はい」
「おぬしは今までよくがんばってくれた。だからこれ以上はわしらは何も強制はせぬ、全てはお前の意志に任せよう。その結果世界が滅ぶことになったとしても、それはおぬしの責任ではない。力ないわしらの責任じゃ」
「オムイ様、何をおっしゃるのですか!! 天使たるもの人を救うた」
「ならおぬしが人間となりエルギオスを討つか!? 自分が出来ぬことをノーヴェに押し付けるでない!!」
初めて聞くオムイ様の怒声に集まる天使たちは沈黙をした。何か言いたいのだろう、ノーヴェやオムイ様をちらちら見るが、誰も口は開かない。
「ラフェット、辛いところを悪いがノーヴェを頼む。心無い言葉がその子を傷つけぬように側にいてやって欲しい」
「かしこまりました」
「ニオ」
「はい、オムイ様」
「天使界を訪れているノーヴェの友人たちをもてなしてあげなさい。……困ったことがあったらわしに直接言いに来るといい」
つまりオムイ様はこう言っているのだ。
他の天使たちがノーヴェに人間となることを強制しないように側で守れと、彼女の仲間たちに戦いを押し付けぬようにそばでいろと。自分たちだけで対処できないときはオムイ様自ら助けてくださると。
「かしこまりました。天使界書記官補佐ニオ、全力を持ってあたらせていただきます」
「ねーやんが犠牲になる必要なんてないよ!」
天使たちの様子を聞いた少年の第一声はこれだった。
「だってねーやんはこれまでがんばってきたじゃん! もうこれ以上がんばる必要なんてないって!」
「ただ戦って勝てばよいというのであれば、何も言わずあなたのお手伝いをしますが……今回は止めさせていただきます。人間になるということ、天使の力を失うということは、それはつまり天使界を見ることも出来なくなるということ。ノーヴェさん、あなたは故郷である天使界に帰ることが出来なくなってしまうのですよ?」
「うん、そうだね……」
黒髪の青年がコンコンと手に持っていた黒板をたたいて見せてきた。
【お前が人間になる必要などない。エルギオスはオレたちだけで倒してくる】
「そーだよ! おれたちががんばって来たらいいだけじゃん!」
「……ダメよ」
「え? 何がダメなの」
エルギオスは天使界はじまって以来の優秀な天使。みすみす死なせに行かせる様なことは自分には出来ない。そしてノーヴェだって仲間を死地に赴かせ、一人で待っていられるような娘じゃない。
だから……彼女の選ぶ選択肢は自分には想像がついていた。
「皆を戦いに行かせて自分だけ待ってるなんて出来ないよ。そんな事をするくらいなら人間になって私も戦いに行く。……でも、ごめん。一晩だけ私に時間をちょうだい。考える時間が欲しい」
【一晩といわずに好きなだけ考えればいい】
「そうですよ、ノーヴェさん。ただ悩むだけなら答えが出る事はありませんが、考え続けるのならいつか答えは出ます。だから好きなだけ考えてください。あなたの納得できる答えを」
「おれたちはどんな答えを出したとしても一緒にいるよ」
……ノーヴェはいい友人を持った。こんなにいい人たちがいるのなら人間となっても彼女は不幸にはならないかもしれない。
「ごめんね、ありがとう。けど、考える時間はもういらないや。今、答えは出た。……ううん。決心がついた」
ノーヴェがずっと持っていた女神の果実をかじりとる。人間である彼らにはわからないだろうが、天使である自分には彼女の天使のオーラが急速に薄れていくのがわかった。今はまだ視る力までは失われていないが、もって一日程度だろう。
「ねーやん!? なんで!?」
「私は世界が滅びるのをただ待っていたくない。守護天使だからじゃない、ただ私自身が大切な人たちと生きていきたい」
「その大切なヒトと二度と会えなくなってもですか?」
「……うん。共に逝くより、別々でも生きている方がいい。たとえ遠く離れた所にいたとしても、私はあなたの親友でいられるでしょう、ニオ?」
「もちろんよ、ノーヴェ。距離なんて関係ない、あなたがわたしを見えなくなってもかまわない。たとえどんなことがあってもわたしはあなたの親友だもの。わたしは……いつまでもあなたを見守っているわ」
「……ありがとう。親友が見守っていてくれるのなら、きっと天使界を失っても私は耐えられる……」
【後悔はしないか】
「わからない。でも何もせずに後悔するような事はしたくない。それに力ある天使が他にいたとしても私が人間になるのが一番いいとわかっているから。……私は――天使界の中で私だけが人間界に居場所がある」
「……ええ、そうね。天使界を失ってもあなたにはちゃんと居場所がある」
ノーヴェが一つうなずいて仲間たちへと抱きつく。すると彼らはしっかりと彼女を抱きとめ、任せてくれといわんばかりに力強くうなずいた。
「天使界を失っても、私の居場所はここにある。ウーノ、トレ、クワットロ……君達のそばに」
「ノーヴェはついさっき旅立ちました」
「そう……。あの子はやっぱりその道を選ぶのね」
ラフェット様もわかってらした。ノーヴェが天使界を捨てて世界を救う選択を取ることを。
「わたし……止めたかったんです。本当は止めたかったんです……」
本当は人間になんてなって欲しくなかった。戦いになんていって欲しくなかった。親友に傷ついて欲しくなんてなかった!
「けど、止めることなんてできなかったんです」
翼の羽が生えそろう前から一緒にいてずっと彼女を見てきたからそんなことはできなかった。彼女は人が傷つくのをみすみす見逃せる人じゃないって知ってる、止めたって立ち止まれないって知ってる、引き止める事が彼女を傷つけることを自分は知ってる。
なら自分は送り出すしかない。引き止めたい自分を押さえつけて、表面上は笑顔で見送るしかない。
そして今。もう自分は彼女の無事を祈るしかない。
「ニオ、あなたは天使界とノーヴェ、どちらが大事?」
「……ノーヴェです、先生」
「……私は考えたのよ。イザヤールが残したあの子のために、世界を救うために戦うノーヴェのために出来ることを。そうしたらこれしか思いつかなかった」
机の上にあったその包みを開くと、そこにはノーヴェが残した黄金色の果実があった。……これはたしかオムイ様が預かっていたはず。
「オムイ様に天使界書記官の解任をお願いしたの。……無事に聞き届けられたわ」
「……どういうことですか、先生」
ふんわりと優しく微笑みながらラフェット様はこう言った。
「ねえ、ニオ。私と一緒に天使界を捨てる覚悟は……ある?」
[ ←BACK || ▲MENU || NEXT→ ]
Scribble <2010,10,17>