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天の高みより彼らを見守り続けた我ら
今、我らの意識は地上に残った同胞――世界を救った娘へと注がれている


 彼女はいつも前を見続けていた。不慮の事故で地上に落ちてしまった時も師に裏切られた時も、ただひたすら前を見て進み続けた。そしてその足は一度たりととまることもなかった。師との別れにも、故郷との決別にも彼女はとまらなかった。
 そして道を歩ききり、全てを成し遂げて振り返った時――ノーヴェには何も残されていなかった。
「大丈夫、私には君たちがいるから」
 彼女はそう言うけれど、それが本心でないことは誰の目にも明らかだ。
 ……ノーヴェにとって自分やリッカたちの存在はは砂漠で差し出された一杯の水に等しい。
 それは確かに彼女の乾きを癒すだろう。だが、それが充分なのかといえば、答えは否だ。
 自分たちだけでは全てを失った彼女を補いきることはできない。
 それでも、彼女を支えたい。トレもウーノも、そしつ自分もそう思っている。
「……ねーやんは?」
「神の樹のもとに。口では大丈夫と言ってますが……」
「大丈夫じゃないよね……。ねーやんは気づいてないけど、口数がものすごく減ってる」
【無理もないだろう】
【故郷が消失したのだから】
 そう。消失だ。
 ただなくなったのではなく、存在そのものが消えうせた。
 守護天使とそれに関わる存在は人の記憶から消え、その存在を世界に否定された。
「私たちに何ができるのでしょう」
【そばにいてやるくらいしかできん】
「うん。でも、おれ……」
 ウーノが言葉を濁す。その理由はわかっている。エルシオン学院の入学式が間近に迫っているのだ。
「学校には行きたい。でも、あんな状態のねーやんもほっていけない」
 唇をかむウーノの頭を撫でる。気持ちは痛いほどわかる。
「クワットロさん、どこに?」
 指をクイッと外へ向ける。それで彼女は理解してくれたようだ。「お気をつけて」と自分を見送ってくれた。
 二人と別れてやって来たのは神の樹の下。そこでノーヴェは物憂げな面持ちで空を見上げていた。
「クー? どうしたの?」
「(お前こそ)」
 そう、唇を動かすと、彼女はその言葉を読み取ったのだろう、泣きながら笑ったような表情を浮かべてこたえた。
「呼べないかな、て。でもやっぱり来ないね。……ううん。本当はサンディもアギロさんも方舟もそこに在って私が視えていないだけなのかもしれない」
 ノーヴェが何もない空中に手を伸ばす。そこに何がいるのか、それとも何もないのかは自分には視えない。天使イザヤールが自分達に与えた力はノーヴェが完全な人間になると同時に消え失せていた。
「天使界は消失し、友人たちも消え、その思い出も否定され……。覚悟はつけてた、故郷に帰れなくなる覚悟、友人たちに会えなくなる覚悟はつけてた。だから視えない人間になることも後悔することはないって、あの時は思った、だから戦いに赴けた。……でも」
 大粒の涙が煙水晶の瞳をぬらし、その頬を滑り落ちていく。
「でも、私は! 天使が、天使界がなくなるなんて聞いてない、そんな覚悟なんてついてない! 全てを失って生き残るくらいならあのまま一緒に滅」
 距離を一気につめてノーヴェを抱きしめ、その言葉の先を封じる。腕の中でノーヴェがもがくが離しはしない。
 この言葉の先は言わせてはならない。いや、何より自分が聞きたくない。
 共に旅したノーヴェという守護天使を否定するような言葉は聞きたくない。
 やがてノーヴェの動きは止まり、涙をたたえたままの瞳をこちらに向けてきた。
「ごめん、クー。うん、そうだよね。私があんな否定するような事を言っちゃダメだよね。でも、怖いんだ、忘れられていくのが……守護天使ノーヴェが否定され、独りになっていくのが怖い。……ねえ、クー。君はまだ"私"を覚えてる? 守護天使だった私のことを記憶してる?」
【覚えてるとも】
【オレたちにとって天使はおとぎ話じゃない】
 白墨が砕けそうな勢いで書きなぐる。こういう時は口がきけないことがもどかしい。話すことができたなら、千の言葉に万の思いをのせて彼女を励ますのに。
【忘れずにそばにいる】
【お前のそ】
 白墨が書きなぐられる圧力に耐えきれず砕け散った。まだまだ伝えたいことがあるのに、この先の一言こそをノーヴェに伝えたいのに、黒板がただの板切れに成り下がった。こんな時に限って予備の白墨はない。慌てて服を探ると携帯用のペンと羊皮紙が手にあたった。羊皮紙は安いものでないから、会話するには少々もったいないが、今はいいだろう。服の隠しからそれらをとりだし、黒板の上にのせ、よく見えるようにノーヴェに向けながら書き記す。
【オレはノーヴェの側にずっといる。お前の隣で支え続けてやる。オレがいる限りお前は一人になんかならない】
「うん……うん、そっか。うん、ありがとう。私は一人じゃないんだね。ううん、元から一人になんてなってなかった。私の帰る場所は君たちのそばだって自分で言ってたのに、なんで忘れたりなんかしてたんだろう」
 ノーヴェは黒板から羊皮紙を取り上げると、裏についた白墨の粉をはらってきれいに折り畳んだ。そしてそれを懐にしまうと、パンパンと自身の頬を叩いた。
「トレたちの所に帰ろう、クー。……完全に立ち直るにはまだ時間がかかると思うけど、私はちゃんと思い出したから」
 何を? と首をかしげてみせるとノーヴェはあの時以来はじめてみせるきれいな笑顔でこう言った。
「私にはちゃんと帰る場所があるってこと」



 折られた同胞の心は仲間である青年の支えで再び上を向きはじめた
 だが、まだ足りぬ
 彼女を癒す甘露はすでにまかれてはいるが、それに気づくにはまだ足りぬ
 だからあの神につかえる娘に啓示を与えよう
 我らの同胞への感謝の気持ちが濃縮された黄金の果実への道筋を






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Scribble <2010,10,24>